◯ 絵描きの視点

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ネオテニーとフラジャイル

Photograph & Text by Fumio Kansaku

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人は動物です。では、動物はなぜ生きているのか? 動物は、そして人は、何故命を繋いで生き続けているのか? それも地球という星に乗り合わせたのか? そこが、生物の住みやすい条件を備えているとしても、それは、宇 宙からの生きながらえよという司令によるものなのか? それならば何故、人はその指令及び命令を覚えていないのか? 覚えていないならば隠されているのか? じゃ、なぜ隠さなければならないのか ? それとも生きていると言うこと自体に何にも意味が無いのか? 生命の本質は「自己維持」「成長」、「複製」と言われていますが、何故、成長を続けなければならないのか? 成長の先にその答えが用意されているのでしょうか? 解らないことだらけです。それとも神様の教え?

複製(子供)されることで、ゆっくりながらでもヒトは成長をしているのだと予想されます。地球という星とともに人類はあるわけですが、その環境と合わせて生きていくという個体維持が必要となるわけです。地球上には、動物がいて植物います。そして成長するのかどうかはわかりませんが鉱物(岩石)がありそれらで構成されています。それは、風、水その他の気候条件によって削られたり、他所に移動したりして、刻一刻とその姿を変えています。それをまとめて自然(Nature)といいます。

成長というと、構造の発達と大きさ、量の増大のことですが、別に、経験を積むということで、脳の大の皮脂の拡大ということでもあります。脳の拡大は、対応が上手になると言うことも含めて、生きるということに対する反応の複雑化ということになりましょうか。何時までも成長すれば良いのかそれは正確にはわかっていません。現在は、成長の限界でもある言われています。これは地球上の人口の増大によって、食料問題、資源産出国と消費国との対立、二酸化炭素ガスの増加等々などの問題があり、地球も有限な星であることを気づかされる結果となりました。

一方、成長をできるだけ遅らせて、歯止めをかけるのがネオテニーだといわれています。ヒトの大人はチンパンジーに似ていと言われているのが定説です。個体発生おいて幼形(幼児)にみられる特徴が成体まで保持されること、いいかえれば成長を極端に遅滞させて幼い形質を残存させている現象がネオテニーということになります。これを別名「幼形成熟」と訳します。ネオテニーが長いと言うことは「学び」と「習熟」の時間が充分にとれるということでもあるわけです。

日本でいうなら桃太郎も一寸法師もかぐや姫も、つまりは親指姫もニルスも三年寝太郎も、いずれもネオテニーを最大限に引きのばしている典型的な童話や昔話です。それだけではありません。ミッキーマウスからドラえもんまで、鉄腕アトムからちびまる子ちゃんまで、大半のマンガの主人公はネオテニーにかかっています。哺乳類・ヒト属である人間が生物のなかでも最も劇的にネオテニー戦略を活用した生物だったと言っても過言ではないでしょう。それでは、最初からからなのか、それとも何種類ものチンパンジーから、人間の先祖であったチンパンジーがネオテニー戦略を選んだ? といっても人類が意識してこれを選択したとは考えられません。無意識のうちにそうなったという方が良いでしょう。

おそらく、人類が立ち上がり二足歩行を始めて、言葉を使うことによって、男と女の恥辱の感情が芽生え、意識が誕生したものと思われます。そこから、人間の男と女の性の歴史が始まったと言うことになると思います。そこから、日本で言えば短歌、西欧なら詩などが生まれたのでしょう。このときに現代の人間の基本的形は出来上がったと思われます。旧約聖書のエデンの園追放はおそらくこの事で花井かと思います。母親の胸に抱かれ安心しきった時代を象徴しているということですが、有限な命の人間はそれでは済まないようになっています。ただ言えるのは、意識を得た後も、このエデンの園がその人の一生について回るということです。人間の業とは、意識の力を借りて、エデンの園を再び実現しようとしているようでもあります。

意識を得る前の男は、食べる為に動くことが主であったと考えられ、現代のようにそれほど文明文化にはタッチしていなかったと思われます。エデンの園はもちろん、追放後もしばらくは人間社会は母系社会であっただろうと予想されます。それ以前はヒトもチンパンジーと同様、セックスに男と女という意識を置いていなかったのではないかと思います。七面倒くさい男女のカケシキは無かったということになるでしょうか。

今回は「ネオテニーとフラジャイル」とでもどうでしょうか?

人は動物です。では、動物はなぜ生きているのか? 動物は、そして人は、何故命を繋いで生き続けているのか? それも地球という星に乗り合わせたのか? そこが、生物の住みやすい条件を備えているとしても、それは、宇 宙からの生きながらえよという司令によるものなのか? それならば何故、人はその指令及び命令を覚えていないのか? 覚えていないならば隠されているのか? じゃ、なぜ隠さなければならないのか ? それとも生きていると言うこと自体に何にも意味が無いのか? 生命の本質は「自己維持」「成長」、「複製」と言われていますが、何故、成長を続けなければならないのか? 成長の先にその答えが用意されているのでしょうか? 解らないことだらけです。それとも神様の教え?

複製(子供)されることで、ゆっくりながらでもヒトは成長をしているのだと予想されます。地球という星とともに人類はあるわけですが、その環境と合わせて生きていくという個体維持が必要となるわけです。地球上には、動物がいて植物います。そして成長するのかどうかはわかりませんが鉱物(岩石)がありそれらで構成されています。それは、風、水その他の気候条件によって削られたり、他所に移動したりして、刻一刻とその姿を変えています。それをまとめて自然(Nature)といいます。

成長というと、構造の発達と大きさ、量の増大のことですが、別に、経験を積むということで、脳の大の皮脂の拡大ということでもあります。脳の拡大は、対応が上手になると言うことも含めて、生きるということに対する反応の複雑化ということになりましょうか。何時までも成長すれば良いのかそれは正確にはわかっていません。現在は、成長の限界でもある言われています。これは地球上の人口の増大によって、食料問題、資源産出国と消費国との対立、二酸化炭素ガスの増加等々などの問題があり、地球も有限な星であることを気づかされる結果となりました。

一方、成長をできるだけ遅らせて、歯止めをかけるのがネオテニーだといわれています。ヒトの大人はチンパンジーに似ていと言われているのが定説です。個体発生おいて幼形(幼児)にみられる特徴が成体まで保持されること、いいかえれば成長を極端に遅滞させて幼い形質を残存させている現象がネオテニーということになります。これを別名「幼形成熟」と訳します。ネオテニーが長いと言うことは「学び」と「習熟」の時間が充分にとれるということでもあるわけです。

日本でいうなら桃太郎も一寸法師もかぐや姫も、つまりは親指姫もニルスも三年寝太郎も、いずれもネオテニーを最大限に引きのばしている典型的な童話や昔話です。それだけではありません。ミッキーマウスからドラえもんまで、鉄腕アトムからちびまる子ちゃんまで、大半のマンガの主人公はネオテニーにかかっています。哺乳類・ヒト属である人間が生物のなかでも最も劇的にネオテニー戦略を活用した生物だったと言っても過言ではないでしょう。それでは、最初からからなのか、それとも何種類ものチンパンジーから、人間の先祖であったチンパンジーがネオテニー戦略を選んだ? といっても人類が意識してこれを選択したとは考えられません。無意識のうちにそうなったという方が良いでしょう。

おそらく、人類が立ち上がり二足歩行を始めて、言葉を使うことによって、男と女の恥辱の感情が芽生え、意識が誕生したものと思われます。そこから、人間の男と女の性の歴史が始まったと言うことになると思います。そこから、日本で言えば短歌、西欧なら詩などが生まれたのでしょう。このときに現代の人間の基本的形は出来上がったと思われます。旧約聖書のエデンの園追放はおそらくこの事で花井かと思います。母親の胸に抱かれ安心しきった時代を象徴しているということですが、有限な命の人間はそれでは済まないようになっています。ただ言えるのは、意識を得た後も、このエデンの園がその人の一生について回るということです。人間の業とは、意識の力を借りて、エデンの園を再び実現しようとしているようでもあります。

意識を得る前の男は、食べる為に動くことが主であったと考えられ、現代のようにそれほど文明文化にはタッチしていなかったと思われます。エデンの園はもちろん、追放後もしばらくは人間社会は母系社会であっただろうと予想されます。それ以前はヒトもチンパンジーと同様、セックスに男と女という意識を置いていなかったのではないかと思います。七面倒くさい男女のカケシキは無かったということになるでしょうか。

つまり、人間の幼児がながいあいだ無力であり弱々しいことが、人間社会や人間文化の根本的な基礎であると言えます。これらは体毛を失い、アドレッサンス(発情期)を失った人間が、性的なリビドーが高まって異性を求める前にあえて長い小児期をもつように組み立てたネオテニー戦略なのでした。すなわち人間の幼児期や小児期という「大幅にのばされたフラジリティ(テレビドラマのことではありません。壊れやすい、弱々しさとでも訳しましょうか)」こそが、人間が人間であろうとするための分母的な時空なのです。つまり子供はネオテニーの本質であって、それゆえに「つねに新しい存在」であるということになろうかと思います。

フラジャイルで思い出すのは、人間というものはフラジャイルなものだ、こわれやすい生物なんだから、だから尊いんだと医者でもあったルイス・トマスはいいました。さらに続けて、いま自分が自伝や回顧録を書こうとすると、自分が生きてきたすべてが書けるわけはなく、そんなことは不可能なことで、自分としては自分が考えてきたことだけの自伝を書きたいと頑張って、いろいろよさそうな記憶を掻い摘まむことにするわけですが、この切り詰めたリストを時間順に並べてみると、意外なことに「頭のなかに残っているのは私自身のほんとうの記憶ではなく、おもに他の人々の考えだったり、読んだり聞いたりしたもの、つまりメタ記憶であると言うことです」と。

このメタ記憶こそが、ネオテニーの重要な鍵でもあります。つまり、よく考えてみると自分のものであると思っていた知識が、実は一つも無くて、結局それまでの先人が獲得してきた知恵の借り物であったということに気づかされるのです。自分のオリジナル思想など一つも無かったということです。同じようなとこに落ち着く、つまり、都合良く編集された自分の説でしか無いけれどどこかみんな似ているということになります。それはネオテニー戦略あってのことなのです。それは、言い方を変えれば「生きている」という事自体「いろいろな言葉をつなぎ合わせた遊び」とも言えることになります。

「人間たちがネオテニーを文化として受容できることがあるとすれば、それはわれわれ成人が自分自身の幼児期に学ぶことではあるまいか」ということになります。かつて自分が歩んできたところから逸れていくこと、そこがしかしながら存在の新たな編集の場になりうるということを、ホイジンガはホモ・ルーデンスの依拠するところであるとみなしたということになります。人間の本質は「遊び」にあるということです。

ホイジンガによると遊びは文化よりも古いということです。「ホモ・ファーベル」(作る人)よりも「ホモ・ルーデンス」(遊ぶ人)が先にあります。遊びが本来の生の形式ではないということでもあります。ありあまる生命力の過剰をどこかに放出するもの、それが遊びであったということになります。このときホイジンガは「遊びの編集的本質」に気がついたのでした。ホイジンガは遊びを研究して「緊張、平衡、安定、交代、対照、変化、結合、分離、解決」などがあることを分析しましたが、遊びはものを結びつけ、また解き放つというリズムとハーモニーがあるということ突き止めたことから編集を思いついたようです。

「遊びは、本気でそうしているのではないもので、日常生活の外にあると感じられるものですが、それにもかかわらず、遊んでいる者を心の底まですっかり捉えてしまうことも可能なひとつの自由な活動である」ということになります。また、「遊びは何ものかを求めての闘争であるか、あるいは何かをあらわす表現であるかのどちらかである」ともいえます。人間の持つ能力の過剰のなせる技で、これがあるからこそ人間の成長があると言うことになります。

人間には「涙もろさ」という特徴があります。実際に、人間はあらゆる生物のなかでただ一種だけ、涙を流して泣く動物です。年取ると涙もろくなるなんて良く言います。涙腺が緩むなんて言われます。人間の目は乾かないように「基礎の涙」は、目の表面(角膜)につねに供給されている涙のことで、目を乾燥から守り、酸素や栄養液をはこぶ役割を持っています。「反射の涙」のほうは泣くと出てくる涙で、感情に結び付いています。感情というのは基礎としてコミニケーションとして集団(国家)としての結束力とも結びついています。

こちらがまさに嬉し涙や悔し涙で、哀しくておいおい泣けばその量はふえる。なぜ喜怒哀楽が涙につながるのかといえば、目のせいではありません。そこに脳が関与するからです。涙は血液からつくられているのです。血が濃くなっているということは、いろいろな経験を積むことによって経験値が高くなっているからと言える訳です。個人的になればなるほど、個性的になればなるほど感情も複雑さを増して来るわけです。若い時は自分に対して抑圧の感情があったり、泣くことの恥ずかしさの感情があったりして泣けなかったものが、年と共にその抑圧が解き放たれると言うこともあると思います。
今回は恋愛を語ろうと用意をして始めたのですが、いつの間にか話はネオテニーのほうにずれていました。よっぽど気になっているのでしょう。そんなわけで恋愛の話は次回ということでご了承下さい。というものの、ちゃんとそうなるかは保証できませんが。

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◯ 絵描きの視点

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Fumio Kansaku / 画家
誰でも同じ数字で歳をとります。多少の違いはあるけれどだいたい100年できりとなります。私も後ろから数えたほうが良い歳となりました。あと何年生きら れるのでしょう。できるだけ長く生きたいという願望が強いです。100歳を超えて、150歳よ りもっとですがそれは無理でしょう。私は絵を書き始めてから40年は超えていますが、ようやく自分の絵を描ける入り口が見えてきたかなというところなの で、まだこれからという思いが強いのです。できるだけ健康には気をつけてやっていきたいと思っている今日この頃です。